本圀寺

歴史と沿革

大光山と号する日蓮宗の大本山、寺伝によれば1253年(建長5年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源と伝える。
本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは1345年(貞和元年)のことである。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。
寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。
1569年(永禄12年)本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、本国寺は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたという。
徳川光圀は当寺にて生母の追善供養を行い、1685年(貞享2年)光圀から圀の一字を下され、本圀寺と改称した。
1863年(文久3年)には鳥取藩側用人らが因幡二十士らにより暗殺された、本圀寺事件が起きた。 1921年(大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。
1969年(昭和44年)、本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転することになる。
山科移転以前の旧寺地は西本願寺の北側で、本願寺聞法会館や駐車場の敷地となっている。本圀寺の山科移転後も塔頭16院(前述)は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿いに所在している。

住所住所:京都市山科区御陵大岩六
電話℡075-593-9191 FAX 075-593-7877

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